失敗してもいい。焦げた日も、適当な日も、それが家庭料理

こころとごはん

今日の晩ごはん、お肉を少し焦がしてしまった。

焼きすぎて、味付けも「あ、ちょっと濃いかな」と思いながら食卓に出した。でも家族は「おいしい」と言って、あっという間に平らげてしまった。

そういう日が、時々ある。いや、正直に言えば、「ちゃんとできた」と思える日より、「まあいっか」で乗り越えた日のほうが、ずっと多いかもしれない。

でも、それでいいんだと思う。家庭料理って、そういうものだから。

焦げた日も、薄かった日も、全部「家庭料理」

焦げた日。
味が薄かった日。
レトルトにちょっとだけ手を加えた日。

それでも、全部ひっくるめて——家庭料理、なんだと思う。

レシピ通りに作れた日だけが「いい料理」なんかじゃない。毎日ごはんを作り続けること自体が、もう十分すごいことなんです。

家庭のごはんって、誰かに採点されるわけじゃない。ミシュランの星がつくわけでも、SNSに「いいね」がもらえるわけでもない。それでも毎朝・毎晩、「今日は何にしよう」と考え、食材を切り、火を使い、盛り付けて、食卓に出す。

その小さな積み重ねが、家族の日常をそっと支えているんです。

家庭料理は「完璧」じゃなくていい

家庭料理は、完璧である必要はありません。

毎日の暮らしをちゃんと回していくためのもの。お腹を満たして、ほっとする時間をつくるためのもの。それだけで、もう十分な役割を果たしています。

プロの料理人じゃないんだから、失敗だってする。疲れた日は手を抜いていい。冷凍食品だってお惣菜だって、立派な「今日のごはん」です。

それで誰かが「おいしい」と言ってくれたら、もう百点満点じゃないかと思う。

私が料理を始めたころ、「毎回ちゃんとしなきゃ」とどこかで思っていた。レシピをきちんと守って、見栄えよく盛り付けて、栄養バランスも考えて……。でもそれって、正直しんどいんですよね。

完璧を目指すほど、「またうまくできなかった」という小さな罪悪感が積み重なっていく。そしていつの間にか、料理が義務になっていた。

そこから抜け出せたのは、「家庭料理って、もともとそういうもんじゃないよな」とふと気づいたときでした。

「適当」の中に、ちゃんと愛がある

子どもが小さいころ、「お母さんの作るごはんの中で何が好き?」と聞いたら、「お母さんが作るやつ全部」と言われた。

……ちょっと泣きそうになった。

その日私が作っていたのは、残り物の野菜を炒めただけの、名前もつけようのない一品だった。味付けは醤油と塩だけ。たぶん10分もかかっていない。

それでも子どもにとっては、それが「お母さんの味」なんだと思います。

家庭料理の「適当さ」って、じつはすごく正直で、あたたかい。毎日の生活の中で精一杯やりくりして出したごはんには、レシピには載っていない何かが、きっと入っている。

それを「愛情」と呼ぶのはちょっと照れくさいけれど、まあ、そういうことなんだろうと思っています。

「手を抜く」は、悪いことじゃない

「手を抜く」という言葉には、なんとなくネガティブなイメージがある。でも私は、手を抜ける日に手を抜くことも、料理のうちだと思っています。

毎日全力で料理しようとすると、どこかで必ず息切れする。それよりも、今日はここまで、と自分で線を引けることのほうが、長く続けるうえでずっと大切です。

手を抜ける日に手を抜いておくから、気力がある日にちょっと丁寧に作れる。

そのメリハリこそが、毎日のごはんを長続きさせるコツだと思う。

今日のあなたにできることで、十分

忙しい日は、簡単なものでいい。
疲れた日は、温めるだけでいい。
気力がある日は、ちょっと丁寧に作ればいい。

今日のあなたにできることで、十分なんです。

料理は、自分を追い詰めるためにあるのではありません。食べて、ほっとして、また明日を生きるための力をつけるためにある。だから、あなた自身が倒れてしまっては意味がない。

まず、自分を大切にすること。その上で、できる範囲でごはんをつくる。それで十分。それ以上でも、それ以下でもない。

毎日ごはんをつくるあなたへ

焦げてもいい。薄くてもいい。適当でもいい。

毎日ごはんをつくるあなたは、それだけでもう十分すごい。

誰かのために食材を選び、暑い日も火を使い、食卓を整える——その一つひとつが、小さいようで、じつはとても大切なこと。

完璧じゃなくていい。毎日続けることに、価値がある。

今日も、誰かのためにごはんをつくるあなたへ。

そのままのあなたで、大丈夫。どうか、自分にやさしくしてくださいね。

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